元々、私は人と話すのが得意なほうではなく、なかでも「雑談」に強い苦手意識があった。
用事があればそれについては話せるのだが、用意されたテーマがないと言葉が出てこない……人が集まる場での「ご歓談ください」とか本当に無理!と思っていた。
それでも今は、昔と比べると別人のように、肩の力を抜いて会話を楽しめている。
避けられない状況に身を置くことになったことで、自分なりのコツを掴んだのだ。
雑談で苦労していた話

学習塾に就職したことで、苦手だった雑談が大切な仕事のひとつになってしまった。
塾で関わる相手は、主に生徒(子ども)たち。
大人の常識的なものが通用しない面白さがあり、同時にそこが難しいところでもあった。
しかも配属したてのころなんて、得体の知れない大人に、自ら話しかけてくる子はほとんどいない。
だからこそ自分から動くべきなのだが、そもそも会話すら苦手意識があった私は、自分より一回り以上も年下の子たちに声をかけることも難しかった。
話が全然噛み合わなくて、生徒たちの表情からも戸惑いが分かるのが悲しいし、申し訳ない……
こんな調子で大丈夫?
この先やっていける?
私としては、最初の就職からハードル高めな状況。
それでも試行錯誤していくうちに、楽に会話できるようになり、あまり考えなくても言葉が出てくるようになった。
相手の表情や仕草など、言葉以外からも相手を知ろうとする余裕ができたのだ。
私が掴んだ雑談のコツ

雑談が楽になったのは、自分を縛るものをなくしていったから。
ポイントは大きく2つある。
これらは雑談に限らず使えるかもしれない。
間違えてもよしとする
過去の私は、何においても「間違えてはいけない」と思っていた。
テストのミスはまあ引きずる……でもこれはまだまだ可愛いほう。
舞台に立つような活動をしていたときは「間違えたら生卵を投げつけられる」と、前日はなかなか寝付けなかった。
※そんなお客さんはいない。
会社に入る前は「一度でもミスをしたらクビになる」と、最初のミスまでは相当ビクビクしていた。
※これでは世の会社員たちの職歴がとんでもないことになる。
このような飛躍した思考の持ち主だったので、まずはミスを許容しないと働くことが辛くなってしまう。
かつ「正解」がひとつでないことにも、実戦を通して気づき始めた。
同じ人間はひとりもいないし、誰かへの正解が、別の誰かには不正解になることもあるんだな、と。
正解がひとつではないなら、間違えることを恐れるなんておかしくないか?と、私のなかで認識が変わってきたのだ。

「適当」に話す
誤解のないように言うと「適当=雑」という意味ではない。
考え込まずに軽い気持ちで会話する、ということ(私にはこれが難しかった)。
雑談が苦手だったのは、難しく考えすぎていたからなのだ。
とてもとても重く捉えていた。
「私がなんとかしなければ!」「実のある話をしなければ!」と。
だからあえて、それをやめてみることにしたのだ。
ちゃんとしなくていい。
失敗してもいいし、いつでも取り戻せる。
分からなかったら聞いていい。
すごいことを言わなくていい。
軽い気持ちで話していい。
自分がなんとかするものから、相手と一緒につくるものへ。
勝手に背負うのをやめたらうまくいくようになった。
自分を安心させるとうまくいく

まとめると、意識を向けるところを変えたのだ。
自分が安心することを最優先にした。
Before:
- 自分から話しかけられない
- 会話を続けられない
→話すのに必死だと、会話から情報を得るところまでできない(それどころではない)。
After:
- 楽に会話できるようになった
- あまり考えなくても話せるようになった
→相手の表情など、言葉以外からも読み取る余裕ができた。
私にとってこの変化は大きい。
安心できないと身体が固まり、余計に話せなくなってしまう(これは過去の経験から体感としてあった)。
緊張しそうな要素をなくしていくことで、雑談が楽しめるようになり、毎日職場へ行くことも楽になった。
ああ、今日も8時間話さなければならない……と思いながら通勤していたから。
今でもコミュニケーションで苦しさが出てきたら「適当でいいよ」と自分に言うようにしている。

